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昨日、Agile Conference tokyo 2011に行ってきました。Martin Fowler氏のありがたい話を聞いてきました。

Manifesto for Agile Software Developmentから10年だそうです。となると、自分がXP(eXtream Programming)を初めて聞いたのはもっと前になります。改めてそう聞くと、思えば遠くへ来たものだという気分になります。

しかし、かつてXPに感じたような興奮を最近、アジャイル関連から感じられない自分がいます。今回のカンファレンスでもどこか言葉だけが上滑りをして心に響く感覚がありませんでした。

アジャイル周辺から生まれたいくつかのプラクティスの価値に疑いはありません。たとえば短いイテレーションで開発サイクルをまわすのはソフトウェアの品質を高めます。CI(Continuous Integration)も自動テストも、たいていはかけるコストに見合うメリットを得られます。

ただMartin Fowler氏が主張するように、技法やプラクティスをなぞってメリットを享受するのと、アジャイル宣言の本質を理解するのには距離がある気がします。そして、自分はまだアジャイル宣言の本質が腑に落ちていません。

今回、カンファレンスに出て、改めて「アジャイル宣言の背後にある原則」を読んで、どこが自分の中で引っかかっているのか少し分かったような気がします。

「アジャイル宣言の背後にある原則」の冒頭はこんな感じです。

顧客満足を最優先し、価値のあるソフトウェアを早く継続的に提供します。

奇麗事すぎるとつっこみたい気分はありますが、さらりと流しても心にひっかかりはありません。問題は次です。

要求の変更はたとえ開発の後期であっても歓迎します。変化を味方につけることによって、お客様の競争力を引き上げます。

ここが(もしかしたら10年間)ずっと引っかかっていた部分だと今回気づきました。

変化を抱擁せよ(これはXP由来ですが)という耳障りの良い言葉のせいで、疑ってはいけないと思い込まされていた気がします。しかし正直に吐露してしまうと、開発後期の要求変更は忌避すべきものです。だからこの文を読むと、忌避している本音と、忌避する自分を否定したい気分がないまぜになります。そして結局、この矛盾から目を逸らし続けて、頭はアジャイル、気持ちは非アジャイルな分裂状態になります。

この矛盾を解消できない限り、アジャイル開発を疑いなく受け入れることはできない気がしています。

この背景にはもう少し根深い文化的側面がある気がするので、話は次に続きます。

続く。


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