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マルチスケジューラv5.1.8をリリースしました。大きな変更はない地味なバージョンアップです。致命的なバグ修正が入っていますが、遭遇しない人は遭遇しないバグなので、今のバージョンで問題ない人は急いでバージョンアップしなくても構いません。ついでに小さなUXの改善も入っています。効果は未知数です。

と、これだけの記事では情報量が少ないので、先月あった話を書きます。グループウェアのUX(ユーザ体験)について考えさせられる出来事がありました。

先月、某所で今のグループウェアの不満点を聞く機会がありました。その中で、某氏(Sさんと呼びます)から機能要望が出ました。その具体的な中身は今日の話に関係しないので省きますが、端的に言うと、ある情報を画面で見たいという要望でした。それに対するぼくの意見は、その情報は探そうと思えばいつでも探せるのだから画面で見えている必要はないというものでした。必要な時に探せれば充分な情報だったからです。それはそのとおりだけど、とSさんは答えます。でも画面で見えていてほしい、把握しておきたいのだと言います。

いつもの自分であれば、こんな風に合理性を欠く反応を示す相手には、なぜその考えが間違っているかを説いて、筋道立てて相手を説得するところです。だいたい探せばわかるようなことを把握しておきたいのは、意味のない面倒さを背負い込んで仕事している気分になっているだけです。そんなの意味がない、と。他人の間違いを正してあげることは自分なりの正義です。

しかしなぜかこの日は違いました。知らないうちに疲れが溜まっていたのか、それとも他人に共感できる程度に自分も年をとってしまったのか、あるいはSさんが新人社会人にマナーを教える人で自分と対極の位置にいる人だったからか、とにかく理由は不明ですが、Sさんの「でも画面に見えていてほしい、把握しておきたい」気持ちがなんとなくわかる気がしました。

システム寄りの思考を長く続けていると、余計なことを頭からいかに追い出すか、と考えがちです。これは実に合理的です。必要ないことを頭から追い出し、不要なことを目の前から追い払えば重要なことに集中できます。必要なことは必要になった時に探し出せばいいのです。情報の探し方や所在だけを知っていれば普段は忘れることができます。視界は良好、実に清々しい世界です。しかし人には、気になることを把握しておきたい、気になることを目につく場所に置いておきたい、という欲求があるような気がします。

そう考えると、身の回りのささいな物事を把握しておきたい小さな幸せを、合理性の名の下にシステムが奪うのが本当に正しいユーザ体験なのか疑問に思えてきます。更に言うと、もしグループウェアが業務の中の小さな面倒事を人から解放したとして、これが本当に正しいUXなのか誰もわかりません。なぜならその小さな面倒はあってもなくても業務効率に影響しなかったかもしれないからです。むしろ小さな面倒や不安を奪われたことで、人はもっと大きな不安(将来のことや死など)に心とらわれるかもしれないのです。

そんなことを考えてSさんの要望を聞いていました。社会人としてのマナーがなっていないと怒られることはありませんでした。


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