サーチエンジンの利用は増えていてもいいんじゃない?
井上さんが、サーチエンジンの利用は増えているのか? というblogエントリの中で、
要約すると以下のようなことを述べられていました。
(1) その登場時点からサーチエンジンに目に見えた進化はない
(2) 定点観測的なWebサイト訪問をする人が増加していると思っていた
(3) この2点からサーチエンジンの利用は増大どころか減少していてもおかしくないと思っていた
さすが、井上さん、何事にも一家言をお持ちです。
(1)は多分、その通りだと思います。Googleの凄さは、その装置の素晴らしさにあって、その機能そのものの先鋭さにあるのではないと思います。
(2)はよくわかりません。そうかもしれないし、そうではないような気もします。
で結論の(3)については、別の考え方があるように思います。
今まではサーチエンジンの存在や利用方法そしてその恩恵についての知識が少なかった利用者層にまで、サーチエンジンが浸透してきたのではないだろうか、と。
あるいは、Webで公開される情報の質量が増大した結果、求めている情報が見つかるはずだという期待値が上がったことが、アドホックに何かを探すという行為の妥当性を高めているのでは、とも思います。
そもそも、見つかりそうもないのなら、誰も端から探そうとはしないでしょう。
つまり、サーチエンジンという探す手段の進化ではなく、探される対象すなわちWeb上のコンテンツの充実が、サーチエンジンの利用増大につながっているのではないかと思うのです。
このロジックが正しいとすると、探す手段の進化は福音となるはずです。まだ誰も、その福音を鳴らす鐘を作り出せていないだけで。
ついでながら、「ぼくは昔からいわゆる定点観測的なWebの使い方をほとんどしていません。(中略) 同じサイトを毎日まわるだけのWebの使い方は敗北しているような気がしているからです」とのことですが、ぼくの場合は非常に限定的な定点観測のみです。
それは勝敗というよりも、戦う前に逃げているからです。情報の洪水からの逃避です。
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Re:サーチエンジンの利用は増えていてもいいんじゃない?
正確な要約を求めるなら、「Google以降に目に見えた進化は無いと思う」、と書いたつもりです(Googleは過大評価が多すぎるので少し反発したくなりますが、変化はありました)。
> で結論の(3)については、別の考え方があるように思います。
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サーチエンジン専門家の意見を聞きたいので、議論をしてみます。
ふたつの疑問があります。
a. 随分以前から、Webを始める人が最初に知るサイトはyahooだったと思います
b. Webで公開される情報の量(質は不問)は、遥か昔に個人の把握できる閾値を越えていました
前者は雑誌などからの推測で、間違っているかもしれません(雑誌でyahooを知ることが日本特有かもしれません。インターネット系雑誌自体を読むことが、既に初心者ではないのかもしれません)。
後者の観測には自信があります。ぼくはソースコードの量と人間が把握できる閾値についてずっと考えています(2年前にも書いていますが、考えているのはもっと前からです。http://dev.ariel-networks.com/blog/inoue.php?blogid=2&archive=2003-12-24)。ソフトウェアの安定性は、結局、人間が把握できることにかかっていると思っているので真剣に考えています。言いたいことは「情報量が増えていること」より「情報量が閾値を越えたこと」の方が、人間の行動に与える影響は大きいだろう、ということです。閾値を越えたのが、ここ2,3年とは思えません(情報量に対して、あまりに人間の頭がスケールできないので嫌になります)。
> 探す手段の進化は福音となるはずです。まだ誰も、その福音を鳴らす鐘を作り出せていないだけで
これは同意します。
現状のサーチエンジンにはまったく満足していませんし、Google以降に進化が停滞している気すらして(ぼくの認識不足の可能性もありますが)大いに不満です。もちろん、不満を他人のせいにするつもりはありません。
Re:サーチエンジンの利用は増えていてもいいんじゃない?
特に、閾値を超えることが人間の行動へ与える影響が大きいという点への同意には、百匹目のサルという社会的な脈絡についてと、認識の限界という個人的な脈絡についての両方の意味を含みます。
ただ、事実としてWebの情報量が個人の把握できる閾値を超えていたとしても、そのことを万人全てが認識してはいなかったのかもしれませんし、認識していたとしてもその閾値の向こう側には興味を持たなかったのかもしれません。
興味を持たなかったとすれば、その理由も実は重要な気もします。ただ、話が発散しそうなので、その点は放置しておきましょう。
つまり、Yahoo!のディレクトリ階層の浅い段階までで完結した世界で充足していた人、その範囲外の存在には無自覚だった人、その範囲外には期待してなかった人、そういう人たちもかなりいたのではないでしょうか。
もちろん、これは単なる推論でしかなく、傍証となるデータなどに基づく仮説ではありませんが。
で、こういうアナロジーはどうでしょう? いや、特に意味はないのですけど。
孤島に暮らす人々がいました。
島の人々にとって、「世界」とは村を中心とした半径10kmのことです。島は明らかにもっと大きいのに、その範囲より遠くは、世界の果てとしか認識されないのです。
多くの人は、村に伝わる野風土記という書物の情報を参考にして、「世界」をうろうろしていました。それで基本的な用事は事足りるように思えましたし、何しろ「世界」の外側には何があるのかもわからないので、探検しようもないのですから。
でも、いつ頃からか、傀儡を使った呪術師が村に現れました。その傀儡に果物の在り処を尋ねると、その場所を教えてくれるのです。しかも村内だけでなく、島全体です。
最初の頃は、その呪術師の傀儡に尋ねる人はそう多くはありませんでした。ただ、そういう人たちが村では手に入らない果物を食べている姿は、他の村人の目にも入るようになり、少しずつ傀儡に尋ねる人も増えていきました。
そうして、百人目の村人が傀儡に尋ねるようになった時点を契機に、傀儡に尋ねるという行為はごく当たり前のこととなりましたとさ。
ところで、エントリ本文を読み直して、修正しておきたい箇所を見つけました。
> サーチエンジンという探す手段の進化ではなく、探される対象すなわちWeb上のコンテンツの充実が
というくだりでは、「コンテンツの充実」は「コンテンツの深化」とすべきでした。
そうすれば、ロングテールという現象をも微妙に意味しつつ、しかも「手段の進化」と韻を踏めたのに...
Re:サーチエンジンの利用は増えていてもいいんじゃない?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1