「直感」はどこから来るのか?
前のエントリーで、フォルダメタファは実装の都合を押し付けられただけのものではなく、意外に人間の「脳内モデル」(「メンタルモデル」と呼ぶ方がユーザビリティ界隈では通りがいいかもしれません)を表しているのではないか、それに対してタグのポテンシャルを発揮できる「直感的」なUIがないものなのか、という期待とも嘆きともぼやきともつかないことを書きました。
そもそも、タグ操作に限らず、「直感的」なUIとはどうやったら実現できるのでしょうか?
よく、「このUIがわかりにくいのは直感的ではないからだ」とか、逆に「このUIは直感的で使い易い」とか、ソフトウェアの使い勝手が「直感」という観点で評価されます。
そこでは、「直感」は自明なものでかつ普遍的に共有されていること、という合意があるかのようです。しかし果たして、誰もが同じ「直感」を持っているものなのでしょうか?
Jef Raskinは「ヒューメイン・インターフェース」で、「あるユーザが、特定のインターフェースを直感的と評価した場合、それは該当ユーザの慣れ親しんでいる他のソフトウェアや手法と、そのインターフェース操作が似ていることを意味しているだけなのです」と述べています。
また、Joel Spolsky も、彼のコラム「Joel on Software」で「ユーザモデルは、ほかのプログラムがどう振る舞うかユーザが見てきたことを反映している」と述べています。
もちろん、認知心理学的なレベル、さらには生物学的なレベルで決定される「直感」もあるのかもしれません。しかし、より高次のレベルでは、確かに私たちは文化的な習慣に支配されているようです。
例えば、今や「直感的」とも言える、フロッピーディスクのアイコンが保存操作を表すことも、私たちはいつかどこかで学習しているのです。それは、「直感」というよりも習慣、イディオムなのです。
Alan Cooperは「About Face 3」の中で、「一般にメタファと考えられているGUI要素の多くは、実際にはイディオムである」と言い、さらに「メタファ的なインターフェースは、直感的な仕組みを基礎としているので、リスキーな方法だ」とメタファと「直感」について否定的な意見も述べています。
つまり、「直感」は人によって異なる可能性を含んでいるということです。従って、特定の誰かの「直感」が自明で普遍的なものだと思い込むことは危険なのです。
もちろん、文化的なバックグラウンド、特にソフトウェアのユーザー体験が似通った人の中では、UIについての「直感」は共通性が高いでしょう。
ただし、新しい機能や概念については、慣れは存在しないため、共通性のある「直感」を当てにすることはできません。
Alan Cooperは、「すべてのイディオムは学習を必要とするが、優れたイディオムは一度学習すれば身につく」として「デザインの中心にはイディオムを据えるべき」と考えます。その実例として、優れているが未知のGUIに人々が慣れるまでの発売初期はMacも苦戦したものの、そこを超えてからはそのユーザビリティが評価される結果となったという歴史を例として挙げています。
ユーザーの学習を前提として、その学習を容易とする考え方は、新しい機能や概念を実現するUIの検討する際の指針とできるかもしれません。
任天堂で1960年代後半から数々のヒット商品を開発してきた横井軍平という人がいます。アナログなおもちゃ時代から活躍しながら、ゲームボーイの開発まで行ったという凄い人です。
横井さんは、ドンキーコング開発時に、どうやって遊び方が伝わるかを検討して、女の子をさらったドンキーコングが上に登って行くデモ画面を入れたそうです。そうすることで、プレイヤーは上を目指していくということが「直感的」にわかるようになるという狙いです。
つまり、「直感」を誘導する仕組み、あるいは新しいイディオムを学習するためのガイドを用意したということです。
その発想とセンスには感嘆します。そこには、プレイヤーが当然、遊び方を自然とわかってくれるという甘えも、マニュアルを読めばわかるという言い訳もありません。
もしかすると、「直感」はどこかにあるものではなく作り出すものである、と考えてみる位の不遜な態度でなければ、「直感的」なUIは生み出せないのかもしれません。
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