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フォルダは「実装モデル」なのか、「脳内モデル」なのか?

タグによるドキュメント管理はディレクトリ構造の呪縛から私たちを解放してくれる、
そしてそれは、情報へアクセスする方法を革新し、情報活用を新たな次元に引き上げることになるかも、
なんてことを、この数年、考えていました。
どう考えても、ファイルシステムに依存したディレクトリによる構造化よりも、
複数の属性の付与と集合演算的な操作の方が、情報の整理と再現の自由度が格段に高くなるはず、
と考えていたからです。
しかし、その考えが最近、揺らいできました。

理屈ではタグは自由度を高めるはずなのですが、
現実にはそのポテンシャルを人間の側が使いこなせるのだろうかという疑念を拭えないのです。
どれだけ高機能であったとしても、当然、使いこなされない限り意味がありません。
なのに、タグ操作のポテンシャルを発揮できて、かつ「直感的」なUIがどうも見つからないのです。

アラン・クーパーは「About Face 3」で、UIをユーザーの「脳内モデル」で表現すべきである、と述べています。
つまり、コンピューターのハードウェアやソフトウェアの実装の都合をユーザーに押しつけるべきではない、ということです。
なるほど、使う側のイメージが既にある場合、そのイメージに沿ったUIの方が使い易いに決まっています。

そして、アラン・クーバーは、「脳内モデル」ではなく「実装モデル」が適用されている例として、
ファイル操作をユーザーに意識させることの弊害を訴えています。
ファイルシステムという実装に沿ったディレクトリという概念をユーザーが使いこなすことを期待するのではなく、
保管場所を意識しないで済む仕組み、属性検索の仕組みを提供すべきだと述べています。

おお、私の思いと同じようなことを、巨匠が言っている、とか思ったのですが、
ホントにそうなのかな、というのが最近の率直な気分なのです。
果たして、どこか自分が預かり知らないところに保管され、その時々に応じた手がかりで探し出せる、
というのがドキュメントの保存と再利用の「脳内モデル」なのでしょうか?
どうも私にはそうは思えません。
人は、物理的に何かを保管する際に、棚や引き出しなど置き場所を手がかりにするものです。
その観点に立てば、フォルダメタファは、ファイルシステムの「実装モデル」ではなく、
人間の習慣的な整理整頓の「脳内モデル」とも考えられます。
私は最近では、後者だと思うようになりました。

例えばGoogle Docsでは、一覧画面の左側ペインにタグをフォルダアイコンで表示してあり、
そのアイコンをクリックすると右側のペインに選択されたタグが付与されているドキュメントが一覧されます。
これは見慣れたWindowsのExplorer的なドキュメントナビゲーションです。
そしてその中で、見慣れた「フォルダ」風にタグが表現されています。
GoogleがこのようなUIを提供している理由は、
タグよりもフォルダの方がドキュメントを保管したいユーザーにとって「直感的」だと判断したからなのかもしれません。

ただ、このフォルダアイコンでの表示は、タグの特徴を伝えるという面では明らかな後退です。
私自身、Google Docsを利用していて、フォルダアイコンでナビゲーションされると、
ドキュメントがそのフォルダ内に「ある」という感覚を拭えません。
一つのドキュメントに複数のタグを付与していて、そのドキュメントを探そうとする場合、
探している状況に応じて複数のタグを使い分けて選択するよりも、あれは「どこに」あったっけ?と考えてしまいがちなのです。

私がこう感じるのは、私が旧来のパラダイムに囚われているせいかもしれませんし、
多少なりともソフトウェアに関わって来てファイルシステムに慣れているからかもしれません。
でもこれは、私個人の問題ではなく、多くの人に共通する感覚とは言えないものでしょうか?

もしかすると、Google Docsではタグを階層化できることも、このような感覚をもたらす要因かもしれません。
あるいは、bookmarkやRSSアグリゲーションやblogなどのフォーマットは1種類で情報を管理していると感じさせる機能と、
様々なフォーマットのドキュメント(ファイル)を自身の手で管理していると感じさせる機能との違いなのかもしれません。
つまり、「情報」は形のないもので、「ドキュメント」は形があるものとして、扱う際の意識が異なる可能性はないでしょうか?
そのことが、あらかじめどこかにあることを受け入れている状態で目印をつけるという行為として認識するのか、
どこにもない状態から保管するという行為として認識するのか、という違いを生むようにも思えます。
それとも、ただ単純に、人間は複数のファセットで情報を管理することが苦手なのかもしれません。

などと考えれば考えるほど、実はフォルダメタファは人間にとっての「脳内モデル」なのではないか、と思うのです。
しかし、親和性が高いということに留まるのではなく、人間の能力を拡張するという観点も重要で、
その意味でやはり、タグの活用は諦められません。

タグ操作のポテンシャルを発揮できて、かつ「直感的」なUI。
どこかにそれはあるのでしょうか?

Category(s)
UI/UX
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「直感」はどこから来るのか?

前のエントリーで、フォルダメタファは実装の都合を押し付けられただけのものではなく、意外に人間の「脳内モデル」(「メンタルモデル」と呼ぶ方がユーザビリティ界隈では通りがいいかもしれません)を表しているのではないか、それに対してタグのポテンシャルを発揮できる「直感的」なUIがないものなのか、という期待とも嘆きともぼやきともつかないことを書きました。
そもそも、タグ操作に限らず、「直感的」なUIとはどうやったら実現できるのでしょうか?

よく、「このUIがわかりにくいのは直感的ではないからだ」とか、逆に「このUIは直感的で使い易い」とか、ソフトウェアの使い勝手が「直感」という観点で評価されます。
そこでは、「直感」は自明なものでかつ普遍的に共有されていること、という合意があるかのようです。しかし果たして、誰もが同じ「直感」を持っているものなのでしょうか?

Jef Raskinは「ヒューメイン・インターフェース」で、「あるユーザが、特定のインターフェースを直感的と評価した場合、それは該当ユーザの慣れ親しんでいる他のソフトウェアや手法と、そのインターフェース操作が似ていることを意味しているだけなのです」と述べています。
また、Joel Spolsky も、彼のコラム「Joel on Software」で「ユーザモデルは、ほかのプログラムがどう振る舞うかユーザが見てきたことを反映している」と述べています。
もちろん、認知心理学的なレベル、さらには生物学的なレベルで決定される「直感」もあるのかもしれません。しかし、より高次のレベルでは、確かに私たちは文化的な習慣に支配されているようです。
例えば、今や「直感的」とも言える、フロッピーディスクのアイコンが保存操作を表すことも、私たちはいつかどこかで学習しているのです。それは、「直感」というよりも習慣、イディオムなのです。
Alan Cooperは「About Face 3」の中で、「一般にメタファと考えられているGUI要素の多くは、実際にはイディオムである」と言い、さらに「メタファ的なインターフェースは、直感的な仕組みを基礎としているので、リスキーな方法だ」とメタファと「直感」について否定的な意見も述べています。

つまり、「直感」は人によって異なる可能性を含んでいるということです。従って、特定の誰かの「直感」が自明で普遍的なものだと思い込むことは危険なのです。
もちろん、文化的なバックグラウンド、特にソフトウェアのユーザー体験が似通った人の中では、UIについての「直感」は共通性が高いでしょう。
ただし、新しい機能や概念については、慣れは存在しないため、共通性のある「直感」を当てにすることはできません。

Alan Cooperは、「すべてのイディオムは学習を必要とするが、優れたイディオムは一度学習すれば身につく」として「デザインの中心にはイディオムを据えるべき」と考えます。その実例として、優れているが未知のGUIに人々が慣れるまでの発売初期はMacも苦戦したものの、そこを超えてからはそのユーザビリティが評価される結果となったという歴史を例として挙げています。
ユーザーの学習を前提として、その学習を容易とする考え方は、新しい機能や概念を実現するUIの検討する際の指針とできるかもしれません。

任天堂で1960年代後半から数々のヒット商品を開発してきた横井軍平という人がいます。アナログなおもちゃ時代から活躍しながら、ゲームボーイの開発まで行ったという凄い人です。
横井さんは、ドンキーコング開発時に、どうやって遊び方が伝わるかを検討して、女の子をさらったドンキーコングが上に登って行くデモ画面を入れたそうです。そうすることで、プレイヤーは上を目指していくということが「直感的」にわかるようになるという狙いです。
つまり、「直感」を誘導する仕組み、あるいは新しいイディオムを学習するためのガイドを用意したということです。
その発想とセンスには感嘆します。そこには、プレイヤーが当然、遊び方を自然とわかってくれるという甘えも、マニュアルを読めばわかるという言い訳もありません。

もしかすると、「直感」はどこかにあるものではなく作り出すものである、と考えてみる位の不遜な態度でなければ、「直感的」なUIは生み出せないのかもしれません。

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