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カリスマについての考察

カリスマであることの絶対条件は無意識性である。それと同時に彼は無意識な状態において徹底した意識的無知を演じなければならない。無意識な知を意識的に認識したり、自分がなぜカリスマであるかの理由を見事に意識的に解明した場合には、まもなく彼のカリスマ性は消え去ってしまう。それゆえ意識的な知のもとで構成される彼の言葉にはカリスマ性がないし、意識して彼がカリスマもどきを演じようなどとする場合には言うまでもないがカリスマのかけらも存在しない。つまりカリスマであり続けるには無意識的に無意識を演じるカリスマ性が必要であり、そのゆえに第一のカリスマ性を持って生まれてきたとしても、第二のカリスマ性を持たない限り、彼は人生の前半で彼のカリスマ性を自ら消しさってしまうのである。

カリスマには異端者が多いと思われるかもしれないが、それは間違いである。カリスマはその無意識性によって人を酔わすのである。内容は直接に関係しない。ただ、異端であるからカリスマ的であると人々が勘違いしてしまい、そのことによって少なからずのカリスマもどきがカリスマのサンプルに紛れこんでしまい、正確な推測をくるわしているだけのことである。

カリスマは人ではない。およそ動物である。虚無も感じないし不安も感じない。彼は彼ではない。

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アグレッシブさが足りない

オープンソースソフトウェアのソースコードを読むことは確かに勉強にはなるかもしれないけど、その知識でガチガチに防御を固めていざそのプロジェクトに貢献するってなったときに、その人がどれほど役に立つかというと全く勉強していない人と同じぐらいだと僕は思う。

ソースコードというのはそのソフトウェアの具体的写像でしかなくて、いかにソースコードを理解しようともそのソフトウェアを理解したことにはならない。ソフトウェアを理解していないというは結果的に貢献(改善)すべき場所の特定や斬新なアイデアの生成ができないということに等しい。もちろんソースコードを読むというのはスキル上げの面でも娯楽の面でも結構な事だと思う。が、しかし、それでいきなり自分が他人より貢献の力があると思ったりするのは良くない。

どういうわけか巷では、ソフトウェアを改造することよりもそのソースコードを読むことのほうが遥かに人気を博しているようだが、ソースコードを読むことのどこが楽しいのかよくわからない。僕が勉強と銘打って何かしらのソースコードを読んでいるときはいつも全然内容が身についてないなと感じる。それを避けるためか否かは自分でもはっきりしないが、結果的に必要のないときに概観や単語の取得するため以外にソースコードを読むことはやらなくなった。それよりか、今そのソフトウェアにどういう事が起きててどういう事が望まれるかをアンテナを張り巡らしてウォッチしたり考察したりするほうが好きだし、よっぽど生産的だと考えている。別にソースコードを読むのは何かやることを見つけてからでも遅くないし、それに加えておそらくそういう状況のほうが内容が身につくと思うのである。

しかし、アンテナを張り巡らしたり、毎日休むことなく具体的にあるいは漠然と何かやろうと考えるのはなかなか体力が必要で、結局ひとまずそういうことを未来の視野において、今のうちにソースでも読んでおこうという人が出てくるのだと思う。別に今やったって誰も困るわけでもないのに。

僕は人に言えた身分ではないけれども、少なくとも毎日 lkml を読んだり、何かしらアイデアを練ったり、バグを見つければすでにポストされているかを探すようにしている。何も貢献する気はないと言ってしまえばそれまでなのだが、しかしオープンソースソフトウェアに限った話ではなく、どのような世界でもそのようなアグレッシブさを発揮できる人のみが自分の力や知識を如何なく発揮できるポジションに付くものなのだろうと僕は思っている。

僕は周りの数人(カーネルに興味のある人も含まれている)に lkml を読むことを必死に薦めている(*)。しかし誰も読もうとしない。読まない理由を理解できないわけではないが(要するに英語やらなんやらで面倒くさいのだろう)、読まない理由で自分を制させる理由は理解できない。人間は自分の処理系を変化させることによって対象をどう捉えるかを変化させることができる。

つまるところ、もう少しアグレッシブに考えるようにして、自分を自分が居たいと思うポジションに向かうように自分を律するべきだと思うのだ。

(*)数少ない日本人kernel hackerの富士通・亀澤氏もそう提案している

全然まとまってなくて申し訳ない。自律に関してはまた今度書く。

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Re:アグレッシブさが足りない

Posted by ohyama at 2007-04-01 10:21
ソフトウェアの理解が単なるソフトの機能や実装の理解ではなく、今何が求められ、これが選ばれ、次に何が求められそうかという推察であるという事であるというのは理解できました。
両者の違いを例えるならば、目の前に百のインターフェイスと千の機能を備えた不思議な箱(取説つき)が存在し、それを見て、『こいつの中身はどうなってるのだろう』と思うか、『こいつをどう利用しようか』という事だと思いました。
matsuyamaさんほどの実力者ならば、後者に『どう改造しようか』という考察も追加されるのかもしれません。しかし、それは中身を知った人間とて同じ事です。
又、

>オープンソースソフトウェアのソースコードを読むことは確かに勉強にはなるかもしれないけど、その知識でガチガチに防御を固めていざそのプロジェクトに貢献するってなったときに、その人がどれほど役に立つかというと全く勉強していない人と同じぐらいだと僕は思う。

と思われる根拠を教えてください。

Re:アグレッシブさが足りない

Posted by nagai at 2007-04-03 01:21
>オープンソースソフトウェアのソースコードを読むことは確かに勉強にはなるかもしれないけど、その知識でガチガチに防御を固めていざそのプロジェクトに貢献するってなったときに、その人がどれほど役に立つかというと全く勉強していない人と同じぐらいだと僕は思う。

同じというのは少し乱暴な気がしますが、自分が読んだ氷山の一角のみを正とし、その結果柔軟性を失い状況に応じて適切な解決策を考えられなくなる
というのであれば確かに無知の人よりタチが悪い場合があるとは思います。実際他人のそういう場面を見てきましたし、僕自身も当てはまる場面が多々ありました。
少ない情報しか得ていない状態で無理に理論武装をしようとしてしまって、結果そこから身動きが取れなかったり・・。

Re:アグレッシブさが足りない

Posted by matsuyama at 2007-04-03 13:13
要するに初速度の問題です。何をするべきかわかってない人は全然何も知らない人と同じ初速度だという意味で「同じ」と表現しました。もちろん加速度に関してはソースコードを読んでいる人のほうが圧倒的にあるでしょう。しかし現実的には僕も含めて初速を得られない人がたくさんいるようです。そういうことから僕はエントリにあるような結論を出しました。

自律能力について

僕はもうかなり以前から世間一般にいわれる「天才」という概念を純粋な能力に関する天賦の才とその能力に先天的に整合する自律能力の綜合だと考えています。つまり、天才的な能力を持った人間の中にも、先天的に能力に整合した自律能力に恵まれて世間の賛美を得る真に天才な人間と、先天的に能力に整合した自律能力に恵まれず、どうにも才能はあるのだけれどいまいちぱっとしない準天才とも言うべき人間が存在するのです。比率的には圧倒的に後者が多いでしょう。また僕自身も天才的な能力はさておいて後者に属するものだと固く信じています。

両者の自律能力には一見雲泥の差があるようですが、自律能力が客観的に動作していないという点において差違は全くありません。なぜなら、真の天才のほうはまさに先天的であるし、そうでないほうは自律能力が機能していない(もっとも肉体的な点は別)からです。僕は僕自身のことに関して他のことより興味がありますし、加えて後者のほうが断然多いのは明らかなので今回はそちらに話を絞っていきたいと思います。

自律能力とはどのようなものかと問うていくのはあまりにも哲学的ですので、次のように定義してしまいましょう。つまり、自律能力とは自己の客観性を以ってはじめて自律能力そのものであり、それ以外においては先天的なものかあるいは肉体やその他もろもろに翻弄される自我の虚像となります。道徳的に善い人生を歩むのにも良い仕事をするのにも真の自律能力というのは大変役に立ちます。なぜなら、自律能力は、自分の心がどのような方向に向いているかや、自分が何を考えていて何を悩んでいるのかを、分析し解決する道を提供する力を持つからです。物は考えようとはよく言ったのもで、例えば生まれてこのかた心の汚い畜生がたえず世間を憎むのは、憎める世間に安心を覚えるからで、仮に彼が真の自律能力を突然身につけて、ついで己の浅はかな慰めに卑劣さを覚え、世界との調和のためにそのような生活に終止符を打ち、新たな一歩踏みだすことができたとしたら、と考えるといささか不可能なことでもないように思うのです。

さて、少し話が脱線しました。つまるところ、僕はこのような能力を利用して是非とも仕事に生かしたいと考えているのです。言うまでもないと思いますが、自律能力はあらゆる仕事の改善の究極的な前提となります。いくらスキルを付けたところで、それをうまく利用する方向に自分を自律しなければ全然意味がありません。その点をふまえたうえで、ではどのようにして自律能力を利用するのかを考えてみます。

自律能力を発揮させるための自律能力を先天的に持っていないから自ら自律能力を発揮するのは不可能だという哲学的な突っ込みには異存がないのですが、ここでは習慣という人間の有用な七つ道具の一つを持ち出すことにより十分対処できると思います。習慣はアプリオリな知識に意識を集中させることにより時間的論理矛盾を解決する力を持っています。例えば、習慣的に自律能力を発揮させたいと願いつづけるならば、いつのまにかその習慣が自律能力を発揮させるエネルギーになるのです。もっとも、習慣化するための自律能力云々の話になるので、結局のところ根性論を持ちださなければなりません。あるいは、僕のように環境の力をかりるというのもありでしょう。多くの人がほぼ例外なく自分の環境に不満を抱いているはずなので、それを改善したいという気持を利用するのが即効性のある手段になるでしょう。つまりどこに問題があるかも含めてその気持を自分に帰依させるのです。まあ、これも例の問題を含むわけですが。

自律能力を発揮させるための自律能力の問題に関しては正直手の打ちようながありません。僕のように不幸な環境に恵まれるか、刺激的な出来事に遭遇するかなど、ほとんど運命にまかせてしまうしかないのが現状です。ただし、方法がないわけではありません。おそらく考えうる最善の方法は、習慣化するために必要なエネルギー源を自分の身の周りに置くことでしょう。そうすれば習慣化が途絶える可能性が減るでしょう。

まとめると、自律能力を身につけるためには、自律能力を身につけることを目標とする何かを習慣化すること、習慣化するためのエネルギー源を身の周りに置くこと、以上を長期間継続すること、が必要になります。一度自律能力を身につければ、自分の問題点を見つけて改善するばかりでなく、何が問題かの認識を変えたり、自分の考え方をすっかり変えてしまうことも可能になるでしょう。もちろん限度はありますが、できることはぼぼ無限に近いでしょう。

# 全然まとまっていないどころか、読み返してみて人を小馬鹿にしたエントリだと自覚したことをとりあえず断っておきます

# というかわけわからん記述のおかげで正しく理解できる人がいない気がする

# まあいいや、投稿

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Re:自律能力について

Posted by ohyama at 2007-04-30 22:55
習慣によって自己のジメント能力の向上を図ろうという内容だと認識した上で、コメントさせていただきます。
非凡な才を持ち、そして持つに至る歴史があるアリエル社員の前で半人前の自分が発言するのは恐縮ですが。個人的には『日記』が非常に効果的だと思っています。
ブログではなく『日記』。非形式的ですが言葉の定義を "その日の反省と翌日の抱負を自分に対して語る場所" とします。
公開はあまりお薦めしません。理由は二つ、都合の悪い情報を意識的に書きづらくなる事と嘘をつく可能性がある事。これらは自分に限った事かもしれませんが、非公開によってありのままを書ける事は類推できると思います。
その効果ですが、ある身近な人のすばらしい言葉を借用すると。そこに書かれている内容は紛れもなく『自分が決めたこと』になるわけです。日記を書いた上でなあなあで過ごす日は、書かずに過ごした結果無駄に終わる日に比べて頻度として少なくなりました(あくまで自身の経験談です)。
しかし、『明日〜をしよう。』という非形式的に『決める』事もあるかもしれませんが、日記は考えを言葉に直し、文法構築して、手を動かして形に残すという意味でも、自分に対する決意の"重み"が違います。
このように日記を書くという事は、自分で自分を律するという意味で、自律と言えると思います。つまり、日記は有用な自律のツールだと結論づけます。

Re:自律能力について(修正パッチ)

Posted by ohyama at 2007-04-30 23:06
内容の修正をするにも投稿した内容を削除する事はできないようですので、修正パッチを当てました。つまらない文章で紙面をさいてしまい申し訳ありません。

--- blog.txt 2007-04-30 23:04:40.000000000 +0900
+++ corrented_blog.txt 2007-04-30 23:05:56.000000000 +0900
@@ -1,5 +1,5 @@
-習慣によって自己のジメント能力の向上を図ろうという内容だと認識した上で、コメントさせていただきます。
-非凡な才を持ち、そして持つに至る歴史があるアリエル社員の前で半人前の自分が発言するのは恐縮ですが。個人的には『日記』が非常に効果的だと思っています。
+習慣によって自己のマネジメント能力の向上を図ろうという内容だと認識した上で、コメントさせていただきます。
+非凡な才を持ち、そして持つに至る歴史があるアリエル社員の前で半人前の自分が発言するのは恐縮ですが。個人的には『日記』も非常に効果的だと思っています。
ブログではなく『日記』。非形式的ですが言葉の定義を "その日の反省と翌日の抱負を自分に対して語る場所" とします。
公開はあまりお薦めしません。理由は二つ、都合の悪い情報を意識的に書きづらくなる事と嘘をつく可能性がある事。これらは自分に限った事かもしれませんが、非公開によってありのままを書ける>事は類推できると思います。
その効果ですが、ある身近な人のすばらしい言葉を借用すると。そこに書かれている内容は紛れもなく『自分が決めたこと』になるわけです。日記を書いた上でなあなあで過ごす日は、書かずに過ご>した結果無駄に終わる日に比べて頻度として少なくなりました(あくまで自身の経験談です)。

Re:自律能力について

Posted by takatsuka at 2007-05-05 10:16
「自ら」と「自ずと」の違いですかね?
"運命にまかせてしまう"のが「自ずと」で、
"習慣化するために必要なエネルギー源を自分の身の周りに置くこと"が「自ら」の素、
ってことだと、凡庸でオトナなぼくは理解しました。

「自ら」というのは、とても重要なことだと思います。
でも一方で、人間ってのは結構、無力で、究極的には「自ずと」には逆らえないところもあったりもします。
でもでも、「自ら」な行動は、「自ずと」な偶然を招くという側面もあるのだと信じたいとも思います。
ということで、いずれにしろ、これからの matsuyama さんに期待しているわけです。

なんてことを言われるのが、"僕のように不幸な環境に恵まれる" 一因になっているのかも、と思うと、
逆説的に役に立っていることが嬉しい(?)ような、やっぱり申し訳ないような、
複雑な気持ちです...

Re:自律能力について

Posted by matsuyama at 2007-05-06 03:26
> しかし、『明日〜をしよう。』という非形式的に『決める』事もあるかもしれませんが、日記は考えを言葉に直し、文法構築して、手を動かして形に残すという意味でも、自分に対する決意の"重み"が違います。
> このように日記を書くという事は、自分で自分を律するという意味で、自律と言えると思います。つまり、日記は有用な自律のツールだと結論づけます。
同意です。が、僕は日記に書いていくより頭の中に秘密の考えとして蓄積していくほうがが好きです。ここらへんは個人差がでるところでしょうね。

> なんてことを言われるのが、"僕のように不幸な環境に恵まれる" 一因になっているのかも、と思うと、
> 逆説的に役に立っていることが嬉しい(?)ような、やっぱり申し訳ないような、
> 複雑な気持ちです...
僕は「世俗的に不幸」という意味で表現したので全然問題ないです。それに不幸はもっと別の場所にあると知りましたので。もっとも当時は自分が不幸であると信じきっていましたが(笑)。人生波のごとしです。

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